冬と、約束のウィンナコーヒー

 

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別の世界が見えた気がして、気がついたら、ここら辺の家々もいつか廃墟になるのかな、みたいな思考が止まらなくなった。夜道 パンを2つ買って、ひとつ食べたはいいが、ふたつ目のパンを食べる気になれない、上着の大きなポケットに、突っ込んでしまえ!あの夏と共に。

あの夏を揺らした轟音と共に。

冷たそうな森よ、君は優しいか?首を横に振る木々、縦に振る木々、どこまでも空を散らかしていて、本当は私も仲間に入りたいような気がした。

 


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小学生の頃、学校に非常勤(?)か何かで来ていたジェシーという名の先生がいた。その人は穏やかな中年の女性で、見るからに日本人で、本名も完全なる日本人なのだが、何故かあだ名がジェシーだった。生徒たちは彼女のことを「先生」とは呼ばずに「ジェシー」と呼んでいたが、皆彼女のことをとても敬愛していて、それ故の距離の近さだった。ジェシーは芸術の分野にとても精通していた。正式には図工の先生だったのだが、ピアノやギターも演奏でき、どれも優れた技術を有していて、私にとって憧れの的であった。

 


ある日の図工の授業中の出来事だった。詳しい授業内容は覚えていないが、ひとり1枚、「森」の絵を描く授業だったと思う。ジェシーがある生徒の作品を褒めた。「皆に見せても良い?」と聞いて了承を得ると、その生徒の作品を皆に見せながら、「この森とても良いんですよ。どこが良いかわかりますか?」と質問した。正直上手くは見えなくて、どこが良いのか私には全くわからなかった。私は小学生の頃から自分が周りの人よりは絵が上手いことを少しずつ自覚してきていたから、その頃にはすでに幼いプライドが生まれていた。大好きな先生が他の生徒を褒めるものだから悔しくて、(俺の方が上手いし…)などと生意気なことを思っていた。

ジェシーが言った。

「答えはね、この絵の木々、全部の色が少しずつ違うんです。幹の色も葉の色も。とても綺麗よね。実はこういう景色はこの世界に沢山あります。沢山あるけど、それを見つけられる人はあまりいないの。でも先生は毎日見つけてる。皆もこういう景色を見つけられる人になるのよ。」

 


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12月だった。私はこの頃BUMP OF CHICKENというバンドの「宇宙飛行士への手紙」という曲にどハマりしていて、遺伝子の形が変わってしまうくらい何度も繰り返し聴いていた。この頃の私はとても陽気な性格で、学校でも休み時間中に歌を口ずさんでしまうような子供だった。突然背後から

「あら、歌が上手なのね」

と声をかけられ、思わず飛び上がってしまった。

「びっくりさせちゃった、ごめんなさいね。」

と笑うのはやはりジェシーだった。私は恥ずかしくて、嬉しかった。最近ハマってる音楽の話を一通りした後、

ジェシーは最近どんな音楽聴いてる?」

と聞いてみた。彼女は

「私はこの時期になると毎年、山下達郎のクリスマス・イブを何度も繰り返し聴くの。」

と言って、その場でアカペラで歌ってくれた。

 


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まだ消え残る君への想い

夜へと降り続く

街角にはクリスマス・トゥリー

銀色のきらめき

Silent night, Holy night

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どこかで聴いたことがあるような気がしたけど、どこで聴いたのかは思い出せなかった。

 


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日々は過ぎ、私は小学校を卒業する間際となった。ある日ジェシーがクラスの前でとある話をしてくれた。

「皆は春から中学生になって、1歩大人に近づきます。だから今から、コーヒーの話をするわね。私はコーヒーが大好きなの。皆は飲んだことない人も多いかもしれないけど、これからの人生できっと巡り合うわ。」

唐突に始まったコーヒーの話にクラスの全員が困惑したはずだが、それでも皆静かにジェシーの話に耳を傾けていた。彼女が口を開けば誰もが自然と聞き入ってしまうような、そういう不思議な力があった。

「ウィンナコーヒーっていうコーヒーの飲み方があるの。オーストラリアのウィーンっていう街で始まった飲み方なんだけどね、コーヒーの上にホイップクリームを浮かべて飲むの。ふふ、子供っぽいって思ったでしょ。でもここからが本題なのよ。実はね、大人がウィンナコーヒーを飲む時は、大人だけのお約束があるの。このお約束を守って飲めば、ウィンナコーヒーを飲んでいても、あなた達は大人でいられるのよ。」

苦いコーヒーを甘くするためにホイップクリームを浮かべるだなんて、「逃げ」だと思っていたが、なんとその飲み方をしながらも、大人として認めてもらえる方法があると、そういうことなのだろうか。続けて彼女は言った。

「そのお約束はね、ウエハースでホイップクリームをすくいながらいただくことなの。大人はウィンナコーヒーを必ずこういうふうに嗜むのよ。」

憧れの的である彼女の話は、コーヒーが嫌いな私の心に強く強く焼きついたのだった。

中学生になってその後、ウィンナコーヒーを大人の嗜み方でいただこうと、数多の喫茶店を回った。しかし、ウィンナコーヒーというメニューは高頻度で発見できるのだが、ウエハースが付いてくるようなことはない。自分で作ったり持ち込んだりするのは何か負けた気がするから嫌で、店というパブリックな空間で大人として認められることが私にとって重要だから、必ず店で見つけたいのだ。そんな思いも虚しく、ついにウエハースが付属するウィンナコーヒーを見つけることはできなかった。やがて、季節だけが何度か移り変わって、私は大人に近づくにつれて、ウィンナコーヒーのお約束のことをすっかり忘れていった。

 


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雨は夜更け過ぎに

雪へと変わるだろう

Silent night, Holy night

きっと君は来ない

ひとりきりのクリスマス・イブ

Silent night, Holy night

 


高校3年生の頃の12月だった。大学受験を控えた私は毎日のように予備校に行っていた。住んでいる街と通っている高校がある街の間くらいに位置する、寂れた街にある個人経営の予備校に通っていた。その日は昼からの予備校が終わって、夕方に帰り道を歩いていた。その日はたまたまイヤホンを外していて、静かな街の音をなんとなく聴き流しながら歩いていたと思う。やがて、遠くからゆっくりと懐かしい曲がフェードインしてきて、私はその音が最も大きく聴こえる場所で足を止めてしまった。店先の古いラジカセで山下達郎のクリスマス・イブが流れている、小さな喫茶店だった。

私は導かれるように入店し、案内のまま席に着くと、すぐにメニューの隅から視線を走らせた。もちろん探しているのはウィンナコーヒーだった。完全に蓋をしていた記憶が唐突に紐解かれて、幼い頃ジェシーと過ごした長いようで短い日々を、巻き戻されるVHSのように思い出していた。

 


あった。「ウィンナ・コーヒー」とだけ書かれていた。

 


その日、4年の歳月を経て、私はやっと、ウィンナコーヒーのホイップクリームをウエハースですくうことができたのだった。

 


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12月は時を進めるごとに、少しずつ下がっていく気温に追従するように、少しずつ人が減っていくような感じがする。実際はそんなことないのかもしれないけど。人とか、記憶とかが、少しずつ消えていって、それでも消えないで残ってるものもあって、そういうものを消えないように大切に思ったり、もう消えてしまったものとか、覆われてしまったものとかを必死に探したり、してるような気がする。そして、今放ってる声とか、書いた文字とか、鳴らした音とかは、いつまで残ってくれるんだろう、みたいなことをぐるりと一周だけ考えて、辞める。1日1回、冬の、刺すような冷静さが煌めく。それすらも、遠くから見たら星に見えていますように。それが誰かの瞳を光らせますように。あなたの瞳を光らせますように。

 


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